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2023.06.03(土) 16:16

光と風と共鳴

僕は、ヒトの写真を撮りたいと思うことがほとんどありません。

ヒトにカメラを向けると、大抵、どこか取り繕わせてしまって、僕が「美しい」「好きだ」と感じる状態ではなくなること多いからです。


朗さんが「自然な姿を見せている瞬間の世界を丸ごと好きだなって思えることが幸せなのかなと思いました」と、僕に伝えてくださいました。

この言葉をいただいて、

『嗚呼これも、幸せなのか』

と思うと同時に、

『「自然な姿を見せている瞬間の世界を好きだ」と思わないヒトがいるということでもあるのか?』と思い至って、少し驚きました。


最近の僕の探究心は、

「ヒトの躰にとって自然な状態とはどのような状態をいうのか」に向いています。

椅子に座り、固定した姿勢のままPCに向かい続けるのが自然ではないというのは明白なのですが、

アスリートといわれる方たちが行うアクロバティックな動きや、

ヒトの躰に備わった機能由来で起こる反射などの無自覚、無意識に起こる動きでも、自然とは言えないようにも思います。

それでは、ヒトの躰にとって自然な状態とはどのような状態なのか。

下記の動画が、一つのヒントになるのではないかと僕は考えています。

https://twitter.com/koutopo/status/1655824655511588864?t=JwEhSrBfNvGhAKb9gaYLBQ&s=19

ヒトの躰の自然性については、まだ探究し始めたばかりで、これから探究しがいのある事柄だなと考えています。


精神的な面からみて、ヒトが自然でない状態というのは、社会における見られ方を意識しすぎている状態ではないかと考えています。

「本当の自分探し」といった言い回しがよく使われますが、

「これは本当の自分ではない」と否定したがっているそれも自身の一部、自身というヒトから立ち居でたものなので、全ては地続きで、現れている全てが本当の自分としか言えないのではないかと考えます。

「本当の自分探し」「これは本当の自分ではない」という言説にいたる根本の原因は、社会というものを意識しすぎて自分がやりたいことをやりたいようにやりたいだけやることができていないという欲求不満からくる自己嫌悪なのだろうなと思い至りました。

いじめなど他者を攻撃する行動、社会で起こったことに過剰に反応をし痛烈に批判を行うなどの行動も、自分がやりたいことをやりたいようにやりたいだけ行うことができていないが故に、他者に対してそのような行動に出てしまうのではないかとも考えています。

僕には、他者から攻撃を受ける可能性に対する恐怖がずっと在り続けていたことに、改めて気が付くことができ、現代において、ヒトは、社会を意識せずに生き延びることは不可能ではありますが、他者に対して誠実であることを心がけてさえいれば、過剰に社会を意識して行動しなくても良いのではないかと、やっと、心から思えるようになりました。


ヒトは小宇宙だという例えがよく言われますが、僕もその通りだと感じています。

表現、選ぶ言葉、立ち居振る舞い、身につけているもの…そのヒトの持つあらゆるもの、発するあらゆることから、その方の世界の一部を垣間見ることができます。

しかしながら、宇宙についてヒトが本当のことは何も知ることができていないのと同じように、小宇宙とされるヒト同士が、出逢い、共に在って、「理解する」ことは到底できないのだと、思い至ることができました。

自身とは違う小宇宙である他者と在ることで、自身にも他者にも新しい風が吹く。

その風にのって変わることができる。

変わり続ける小宇宙であるヒト同士が、共に在って、飽きるなどということはない。

そんなお話を朗さんとすることもできて、そういう事柄を既に了解されている方と出逢えて、時間という概念がないかのようにお話ができることが、とてもとてもたのしくて、嬉しくて、幸せなことだと感じます。


僕が幼い頃から居た世界は、真実を探究するもの同士が共鳴しあい、共鳴できた歓びを抱きながら、またお互いの世界で、お互いのやり方で、滅びるまで、真実を探究していくことを誓い合っている姿を、当たり前のように見ることができる世界でした。

小宇宙とされるヒト同士が、「真善美」を語り合い、共鳴し合う姿はあまりにも美しく、僕の精神の根幹に刻み込まれています。

嘗て存在した聖人とされる存在の中にも、似た考えを持った三十年以上歳の離れた存在に出逢うことができ、その歓びで亡くなったと語り継がれる存在もおり、共鳴し合う小宇宙同士が出逢えることは、滅びることができるほどの至上の歓びなのだと知ることもでき、いつか僕も、出逢えた存在と「真善美」を語り合い、共鳴することができるはずだと何処かで希んでいたのだと、改めて気が付きました。

無意識にでも、そのように希み続けて生き延びられたことが、本当に運がよく、とてもとてもありがたいことです。


僕には、健康を維持するための栄養摂取ができれば目的を果たせているという考えがあり、食に対してたのしむという意識が希薄でした。

朗さんはご自身を「食いしん坊」と形容する程食に興味を惹かれていて、彼女の手料理や、選んで教えてくださる食べ物は、豊かとは言い難い僕の味覚でも、とても美味しいと感じさせていただくことができます。

美味しそうな食べ物を目の前にすると、嬉しそうにし、美味しそうに食べて、その姿から、彼女が食事を心からたのしんでいるのがよくわかります。

そんな彼女を見ていると、彼女の感じている世界を知りたい、僕も食をたのしんでみたいという気持ちになって、彼女が教えてくれた食べ物を進んで手にとって摂取してみたり、手作りの調味料を作るなど、食に関して少し手間のかかることもやってみるようになりました。


朗さんは、食べ物の写真を撮る時、一緒に居るヒトも撮ってくださいます。

そして、共有してくださるのですが、朗さんが写してくれた僕の表情を見て、朗さんと居る時、僕はこんなに穏やかな表情をしているのかと驚かずにいられませんでした。

朗さんと居る時は、精神がとても満たされているのを常に感じられるので、それが表情にも如実に現れるのだなと改めてわかり、醜い僕だけれど、朗さんと居る時の表情は、素直に、良いなと思うことができました。


今回の写真は、朗さんと初めて出逢えた日に偶然撮れた写真です。

この瞬間を発見できた時、あまりにも美しくて、カメラを向けずにいられませんでした。

あの日から、彼女は僕の風であり、光です。

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