Posts

キーワードで検索

三度目のライヴ

顔出しNGアーティストさんばかり集まるライヴで、三度目のステージに立たせていただくことができました。

ライヴ中のことはあまり記憶がない、という状態とはこういうことかと、己の體を持って体感することができました。

ただ、最中のことは覚えていないまでも、やはり僕は、うたうことが物凄く好きだということを改めて感じさせていただくことができました。

自身のこえの出せ方が、レコーディングの時とも、初めてライヴをさせていただいた時とも明らかに違っていることを体感することができて、體の探究を更に深めたいという欲求が増しました。

今回は、顔出しNGアーティストさんばかりのライヴで、表現の形式も、顔を隠す方法も、顔を隠す理由も、個性豊かで、今回も、学ばせていただくことばかりでした。



森に還る

僕は田舎で育ったので、幼い頃から山や川を走り回っていました。

それもあって、十代の頃には、この體が最期を迎えるなら森がいいと考えていました。

この體はあくまでも借りモノで、僕のモノではないと考えています。

ヒトという種に生まれているこの體を知り、感じ、味わい、遣い切って、自然に還したい。

そんな考えがいつからかあります。


今回のアーティスト写真を撮ってくださったのは少女漫画家の嘉村朗さんです。

嘉村朗さんの公式ホームページ
https://www.kamuralow.com/


僕のとても好きな大樹を紹介したくて朗さんと大樹の元を訪れた際に、

僕が自然の中でどんなふうに居るのかを、僕にみせたくて撮ってくださったそうです。


朗さんと僕の共通の友人であり、山や渓谷を一緒に歩いたことのある子が、

風に揺れる葉っぱや、力強くおおらかな木々、眩しく柔らかく流れる水、みずみずしく嬉しそうな苔、厳かな岩たちに心を奪われながら歩いている僕をみて、

「森にかえってしまう」

と言ってくれたことがありました。

その言葉が、「ヘラジカハモリニカヱル」の元になっています。


朗さんが撮ってくださった写真をご覧いただいて、他の方はどんなふうに感じていただけるかな、と、思いをはせることができました。

変生

十二月になると、そこかしこで、「今年もあっという間だった」という言葉を耳にします。


自身にとってはどうだっただろうと、本年経験させていただけたことを思い返してみますと、


2023年の一月に経験させていただいたことが、どこか遠い以前の出来事のように感じられ、


一年があっという間だった、と言いきってしまうのは、自身の体感に嘘をついているような気になってしまう感覚があります。


2023年は、音、うたごえ、表現に対する自身の考え方、在り方、印象を広げていただける経験を沢山させていただくことができました。


自身の考え方や見方に、そうとは気づかずにつけていた偏見を壊して変生させていただけたり、


いつか体感したいと考えていたり、ずっと興味があった音や表現に触れられることで、自身のうたごえや表現への理想を拡大させていただくこともできました。


また、ヒトにとっての自然な體の状態とは?という問いを、己の體で実験することができる機会もいただくことができ、


日々日々瞬間瞬間に変化する己の體を見つけては歓び興奮する、というような状態も持つことができるようになりました。


現在も、瞬間瞬間変化する自身の体感や状態に気が付かせていただける時間を持つことができています。


2023年はあと九日とされています。その間にも、自身に何が起こるのか、


2024年という年には、どんなことを経験させていただけるのか、


経験を経て、自身がどんなことになっていけるのか、


とてもとてもたのしみです。

「何故これだけでいきていけないのか」


十代のある時、日々起こる様々なことに囚われて、在ることが辛くなって眠れずに、夜、歩いていった。

歩いている間に空が白んで、登ってくる朝日があまりにも美しくて、囚われている僕が、穢れた物凄く醜いモノのような気がして、

「何故これだけでいきていけないのか」と悲しくて泣いた。

存在していること自体が劇であるにも関わらず、何故ヒトは外側に劇を求めずにいられないのか。


摩天楼の聳える大都会でも、風に揺れる緑は変わらず柔らかくて穏やかで、見つめていると安心して泣きたくなる。


僕はひとりではない。


どうかどうか、やりたいことを、やりたいように、やりたいだけ行うことができますように。


僕と、僕が尊敬していて大好きな方々が健康で、穏やかでたのしい豊かな瞬間を共有し続けることができますように。

光と風と共鳴

僕は、ヒトの写真を撮りたいと思うことがほとんどありません。

ヒトにカメラを向けると、大抵、どこか取り繕わせてしまって、僕が「美しい」「好きだ」と感じる状態ではなくなること多いからです。


朗さんが「自然な姿を見せている瞬間の世界を丸ごと好きだなって思えることが幸せなのかなと思いました」と、僕に伝えてくださいました。

この言葉をいただいて、

『嗚呼これも、幸せなのか』

と思うと同時に、

『「自然な姿を見せている瞬間の世界を好きだ」と思わないヒトがいるということでもあるのか?』と思い至って、少し驚きました。


最近の僕の探究心は、

「ヒトの躰にとって自然な状態とはどのような状態をいうのか」に向いています。

椅子に座り、固定した姿勢のままPCに向かい続けるのが自然ではないというのは明白なのですが、

アスリートといわれる方たちが行うアクロバティックな動きや、

ヒトの躰に備わった機能由来で起こる反射などの無自覚、無意識に起こる動きでも、自然とは言えないようにも思います。

それでは、ヒトの躰にとって自然な状態とはどのような状態なのか。

下記の動画が、一つのヒントになるのではないかと僕は考えています。

https://twitter.com/koutopo/status/1655824655511588864?t=JwEhSrBfNvGhAKb9gaYLBQ&s=19

ヒトの躰の自然性については、まだ探究し始めたばかりで、これから探究しがいのある事柄だなと考えています。


精神的な面からみて、ヒトが自然でない状態というのは、社会における見られ方を意識しすぎている状態ではないかと考えています。

「本当の自分探し」といった言い回しがよく使われますが、

「これは本当の自分ではない」と否定したがっているそれも自身の一部、自身というヒトから立ち居でたものなので、全ては地続きで、現れている全てが本当の自分としか言えないのではないかと考えます。

「本当の自分探し」「これは本当の自分ではない」という言説にいたる根本の原因は、社会というものを意識しすぎて自分がやりたいことをやりたいようにやりたいだけやることができていないという欲求不満からくる自己嫌悪なのだろうなと思い至りました。

いじめなど他者を攻撃する行動、社会で起こったことに過剰に反応をし痛烈に批判を行うなどの行動も、自分がやりたいことをやりたいようにやりたいだけ行うことができていないが故に、他者に対してそのような行動に出てしまうのではないかとも考えています。

僕には、他者から攻撃を受ける可能性に対する恐怖がずっと在り続けていたことに、改めて気が付くことができ、現代において、ヒトは、社会を意識せずに生き延びることは不可能ではありますが、他者に対して誠実であることを心がけてさえいれば、過剰に社会を意識して行動しなくても良いのではないかと、やっと、心から思えるようになりました。


ヒトは小宇宙だという例えがよく言われますが、僕もその通りだと感じています。

表現、選ぶ言葉、立ち居振る舞い、身につけているもの…そのヒトの持つあらゆるもの、発するあらゆることから、その方の世界の一部を垣間見ることができます。

しかしながら、宇宙についてヒトが本当のことは何も知ることができていないのと同じように、小宇宙とされるヒト同士が、出逢い、共に在って、「理解する」ことは到底できないのだと、思い至ることができました。

自身とは違う小宇宙である他者と在ることで、自身にも他者にも新しい風が吹く。

その風にのって変わることができる。

変わり続ける小宇宙であるヒト同士が、共に在って、飽きるなどということはない。

そんなお話を朗さんとすることもできて、そういう事柄を既に了解されている方と出逢えて、時間という概念がないかのようにお話ができることが、とてもとてもたのしくて、嬉しくて、幸せなことだと感じます。


僕が幼い頃から居た世界は、真実を探究するもの同士が共鳴しあい、共鳴できた歓びを抱きながら、またお互いの世界で、お互いのやり方で、滅びるまで、真実を探究していくことを誓い合っている姿を、当たり前のように見ることができる世界でした。

小宇宙とされるヒト同士が、「真善美」を語り合い、共鳴し合う姿はあまりにも美しく、僕の精神の根幹に刻み込まれています。

嘗て存在した聖人とされる存在の中にも、似た考えを持った三十年以上歳の離れた存在に出逢うことができ、その歓びで亡くなったと語り継がれる存在もおり、共鳴し合う小宇宙同士が出逢えることは、滅びることができるほどの至上の歓びなのだと知ることもでき、いつか僕も、出逢えた存在と「真善美」を語り合い、共鳴することができるはずだと何処かで希んでいたのだと、改めて気が付きました。

無意識にでも、そのように希み続けて生き延びられたことが、本当に運がよく、とてもとてもありがたいことです。


僕には、健康を維持するための栄養摂取ができれば目的を果たせているという考えがあり、食に対してたのしむという意識が希薄でした。

朗さんはご自身を「食いしん坊」と形容する程食に興味を惹かれていて、彼女の手料理や、選んで教えてくださる食べ物は、豊かとは言い難い僕の味覚でも、とても美味しいと感じさせていただくことができます。

美味しそうな食べ物を目の前にすると、嬉しそうにし、美味しそうに食べて、その姿から、彼女が食事を心からたのしんでいるのがよくわかります。

そんな彼女を見ていると、彼女の感じている世界を知りたい、僕も食をたのしんでみたいという気持ちになって、彼女が教えてくれた食べ物を進んで手にとって摂取してみたり、手作りの調味料を作るなど、食に関して少し手間のかかることもやってみるようになりました。


朗さんは、食べ物の写真を撮る時、一緒に居るヒトも撮ってくださいます。

そして、共有してくださるのですが、朗さんが写してくれた僕の表情を見て、朗さんと居る時、僕はこんなに穏やかな表情をしているのかと驚かずにいられませんでした。

朗さんと居る時は、精神がとても満たされているのを常に感じられるので、それが表情にも如実に現れるのだなと改めてわかり、醜い僕だけれど、朗さんと居る時の表情は、素直に、良いなと思うことができました。


今回の写真は、朗さんと初めて出逢えた日に偶然撮れた写真です。

この瞬間を発見できた時、あまりにも美しくて、カメラを向けずにいられませんでした。

あの日から、彼女は僕の風であり、光です。

躰について

『躰ってなんなのだろう。』と、いつからかずっと考えています。

「肉体は檻。そこから出たいという感覚になることがある。」

そう教えてくれた子が居ました。

初めてそのお話を聴いたとき、とても衝撃的でした。

僕は、躰に在るから感じられるのだと考えていたので、そうでない在り方を想像したことがありませんでした。


生後1年までの赤ちゃんが、自身の手をまじまじと見詰めていることがあります。

そういう様を発見できると、何を考えながら見詰めているのだろうと思います。


腕や脚は、躰に在る、意識と名付けられたもので動かすことができます。

しかしながら、躰の各所に配置された臓器…心臓、肺、脳、肝臓、腎臓、脾臓、胆嚢、胃、腸、血管を流れる血…自律神経と名付けられた躰の内部を常に同じ状態に保つ機能や、細胞と名付けられた小さなものたちは、意識とは無関係に活動しつづけて、躰を生かしつづけている。

ただ静かに居る時は、心臓の拍動や血液の流れる音がきこえたり、網膜に血流が写ることもありますし、躰を動かしている際にも、動いている筋肉を感じることもありますが、僕らの意識というものは、その活動の詳細を認識することはほとんどないのではないかと思います。


僕の躰には右側の腎臓がないそうです。

「ないそうです」というのは、医療機関にかかって撮影した画像を見せてもらっても、解剖図とは違っていて明確に認識できないので、右側の腎臓が本当にないのか、今でも理解していないからです。

ただ、躰を動かしている時、左側は中身が詰まっている感覚があって右側ほど伸び感を得られなかったり、左側重心の安定感と右側重心の安定感に違いがあるのは、得手以外にもそこに臓器がないことが要因としてあるかもしれないと感じています。


「手の小指がなくなったらどうなると思う?」

高校生のある時、授業中に先生から問いかけがありました。

手を何度か握ったり開いたりしてみて、小指と小指側の掌で力がこもっていることに気が付き、小指が損なわれた場合、握力と腕力が大幅に弱まる可能性があるのではないかと思いました。

「小指ぐらいなくなっても、と思うかもしれないけれど、身体の部位は全てに役割があって、なくなっても問題がない部位はない。ヒトの身体はそのようにつくられているんだよ。」

先生の言葉がとても印象に残っています。


整体師さんとお話をさせていただけるようになって、

整体の世界では、躰のあらゆる部位、躰と躰にあるもの(精神、意識と名付けられたもの)の関連が詳らかにされていることを教えていただくことができて、とても勉強になります。

最近教えていただいた事柄では、

左肋骨下には感情抑圧点と呼ばれる部分があり、言いたいことを言えずに我慢しているとその部分が固くなるそうです。

非常にたくさんの部位に連動している処であり、異常があると様々な症状が引き起こされ、一例として、頚椎と関連して片頭痛や顎関節症、聴覚と関連して突発性難聴を引き起こすことがあるそうです。

また、緊張で躰が固まりすぎていると、躰が常に痛みを感じているので希死念慮が強くなることもあるそうです。

整体師さんによると、僕の躰は緊張が強いそうで、

躰が疲れている時の方が思ったとおりにうたごえが出る気がするのは、緊張している精神が疲れで崩れて緩んで、余計な力みがとれているからかもしれないとも想像します。


躰と、躰に在るモノである僕を見詰めるたびに物凄く不思議で、最終的に、

「これは本当に一体何なんだ?」と思わずにいられません。


2021年に呼ばれたかと思うような出逢い方をした河津桜の元に、2022年3月19日に再訪しました。

その時の僕は、

『僕が生きようが死のうが世界は変わらず、上昇する円環をたどり続ける力が尽きるまで在りつづける。

世界は変わらないけれど、僕だけが見えて、感じられて、触れられているものが確かにある。

それを感じられるのは、僕に躰があるからこそではないのか。』

と文章を残しています。

2023年3月19日も、色々なことがある中で、

ヒトという種全てに共通する「自然」とはどんな状態だろう?という問いを得たり、整体の世界にも触れながら、『躰ってなんなんだろう?』と考えつつ日々を過ごしていて、「躰が在る」から「躰に在る」という表現がしっくりくるような気持ちになっていることも、2022年よりも考えが深化できているような気持ちになることができていて、僕も、上昇する円環を辿れているのかもなと思うことができて、少し嬉しいです。

上昇する円環は繋がり続けているので、今から過去へ自在に行き来できるような気がします。

探究心を喪わずに、考えて、感じ続けていたいです。

日々

暦というのはヒトが定めたものにすぎないというのは厳然たる事実で、あと少しで2023年になるという感覚は全くなく、一応、社会の風潮に従って2022年を振り返ってみるかと思い考えてみたのですが、全く振り返ることができなくて驚きました。

ただ、好きにやらせていただくことができて、そのたびに、尊敬していて大好きな方々が僕を赦してくださっていることがとてもとてもありがたいと感じる日々でした。


一つ印象深いのは、2021年に僕は生まれつき腎臓が片方ないことがわかっていたため、
2022 年は、自身の躰に関して学ぶことが沢山あったことです。

ヒトは二つある腎臓を80%程度の力で運用して活動しているそうなのですが、
僕は一つの腎臓を100%の力で使用して活動せざるを得ず、疲れやすい傾向にあると教えていただきました。
運のいいことに、腎臓にまつわる疾患は殆ど皆無でこれまで過ごせていたので、
『元気溌剌なヒトではなかったけれど脆弱でもなく過ごしてこられたのは、この躰を構成しているモノたちが、どうにか生き延びようと頑張ってくれていたからなのかもしれないな。』
と思えて、この躰の状態を知りできるだけ健やかに保つための方法を学ぶようになりました。
2022年は、躰のことで新たに学んだことが沢山あったので、2023年は、引き続きこの躰のことをもっと知りたいと考えています。


最近体調が芳しくない状態が続いて、表現活動としては動くことができていませんが、自身の行いたいことを改めて見つめる良い機会となりました。
躰が日々変化し続けているのでうたえ方も日々違っていて、今までの自身とうたえ方が変わっていっているのを感じられるのもとてもたのしいです。
『慾動の森』で由美さんや朗さんと語らいたいと思う事柄も日々増えていっています。

僕というモノが何なのか、僕の行いたいこととともに見つめながら、2023年も、やりたいことをやりたいようにやりたいだけ行えるよう努めたいと思います。


皆様、2022年は大変お世話になり、誠にありがとうございました。

2023年も、皆様がなさりたいことをなさりたいように、なさりたいだけ行うことができますように。
皆様と皆様の大切な方々が健やかで、穏やかな時間を共有していただけますように。
2023年も、何卒よろしくお願い申し上げます。

こえという音について

「録音された自分の声を聴いて違和感はない?」


そう尋ねられて、録音された自身のこえを聴くことに、以前ほど苦手意識、嫌悪を感じなくなっていることに気が付きました。



録音された自身のこえすなわち自身の躰の外に響いているこえが、自身だけが聴くことができる自身の躰内で響いているこえと違っていて嫌悪をおぼえるという状態は、強度の差はあれど誰もが経験していることなのではないかと思います。


録音された自身のこえに触れる機会が増える中で、躰外に響いているこえは、躰内に響いているこえの最も低い部分が削られ、高い部分が強く表出されているのだと気が付くことができ、苦手意識を持っていた音が、以前から自身に備わっているモノの一部であると気が付くことができました。


最も低い音を含んでいるからなのか、聴き慣れているからなのか、躰内で響いているこえを心地いい、好ましいと感じやすい状態にあるように思います。



高い音はよくとおり、低い音はとおりにくいので、躰内では自身のこえに備わった最も低い音を体感できていますが、躰外では、発した躰の構造によって吸音されるのか、ヒトの聴力では認識できないのか、最も低い音は聴こえなくなることが多いのではないかとも想像します。


楽曲の録音を経験させていただけたことで、性能の良い機械を通せば、躰内に響いているこえにより近い音を録音、認識することが可能になり、機械の性能によっては、自身の体感したことのないこえの性質に触れることもでき得ると知ることができました。



「Vocalistは体が楽器である」というような言い回しがあります。

僕がVocalistではなく、Vocalizerという表現を選んでいるのは、ただのモノであるという意識をより強く反映できる気がするからです。

躰という道具を通してこえという唯一無二の音を発生できる得体のしれないモノ。

僕がただ音を発する得体のしれないモノとなって、音楽という表現の一部になりたい。

音に限りなく自身を添わせて音そのものになりたい。

そこに言葉は介入し得ない。


こえという音について考えながら、

『僕の躰内で響いているこえを、僕の躰ひとつで、他者にそのまま体感してもらうことができるようにすることは可能だろうか』

そんなところに至ることができました。

みにくいということ うつくしいということ

あなたがうつくしいと感じるモノは?


あなたがみにくいと感じるモノは?


宇宙、空、雲、海、山、風、花、草木、岩石、動物、魚、建物、食器、陶器、織物、家具、機械、車、街、人体、死体、排泄物、吐瀉物、、、


僕の乏しい想像力で列挙した要素には、すべてのヒトが絶対に美しいと言うであろうものも、醜いと言うであろうものもない気がするので、美も醜も、あらゆるものに宿っているのかもしれない、と思います。


僕が人生で一番尊敬していて大好きな方は、
「なにを美しいと感じるかはヒトそれぞれ。それよりも『美しい』ときいたら誰もが『理解る』こと、『美』というideaが在ることの方が不思議で着目すべきこと。」

というようなお話をいつもしてくださいます。
その方のそのお話で、僕はいつも少しほっとすることができます。その言葉を思い出せば、ループに陥った思考を中断してもらう事もできます。


僕はずっと、自身が物凄く醜いモノだと思って生きてきて、今もそう思っています。
恐らく、これから先どうあがいても、この感覚を完全に拭い去ることはできない気がしています。
しかしながら、醜いからこそ、その時その時の自身なりに、自身が醜悪と感じる状態にまではならないよう、ほんの少しでもマシな状態でいられるよう、最善をつくすことを心がけようとしてこられた気もしています。


こんなに醜い僕でも、生きて在ることを赦されたい。赦してほしい。
これは僕の我儘です。
僕は、人間が産まれるとき『また産まれてしまった』と泣いているのではないかと考えています。
産まれてしまえば死ねるまで生きなければならないこの世界を、全く赦されないまま生きなければならなくなる辛さは、想像を絶する。
僕は幸いにも、この生で、こんな僕を赦してくださる方々と出逢わせていただくことができました。
僕は我儘なので、その方たちに、僕がいいと考えることしかお返しすることができません。
それでも、とてもありがたいことに、その方々は、僕のひとりよがりのお返しを受け取ってくださいます。
僕を赦して受け取ってくださる方々の存在で、産まれてしまったこの世界で、なんとかまたもう一日、死ねるまで生きなければと希むこともできる。

とてもとてもありがたいことです。


ある日、既に枯れて雨に濡れそぼっている薔薇を、とてもとても美しいと思いながら眺めていたら、近くを通った方たちが

「もう枯れてしまっていてみすぼらしいね」

とお話しているのがきこえてきました。

『嗚呼、僕はこの姿の薔薇をとても美しいと思うけれど、そう感じないヒトもいらっしゃるのか』と知ることができました。

花押を作成させていただきました

ある日、「ヘラジカハモリニカヱル」のアイコンとなるものを作成しようと思い立ち、最後に筆を手にしたのはいつだったか思い出せないほど久方ぶりに筆をとりました。


アイコンの試作を重ねるうちに、筆による書が、とてもとても自由で、かいている時の状態が如実に反映されること、それ故に、書道を「習っていた」頃の自身にとっては、苦手意識の働くものであったのだということにも気が付くことができました。


あらゆる場面において自身から発生している情動、言葉、行動などは、全て自身に備わっているものであり、全てが自身なので、「どれが本当の自分であるか」という問いにあまり意味はないという考えが僕にはあります。

(『LIGHTING』の歌詞にある『本当の自分さえわからずに』という表現は、僕の中では、上記のような意味での『本当の自分』ではなく、意図は別のところにあります。)

ただ、相対する場面、状況によって、自身から発するものに制限をかけざるを得ないと感じることは多々あり、ヒトによって制限をかける強度が違ってきます。

僕は昔から、制限をかける強度が他のヒトと比べて強くなりがちなようです。


うたいたいからうたうのだと自身を赦せるようになってから、改めて筆をとって、赦せるようになった自分にとって筆による書はしっくりくるものなのだと体感することができて、僕の想像でどこまでできるか試したい、そんな思いになりました。

筆を使って、想像の赴くままに文字をかきすすめることがとてもとてもたのしかったのですが、あくまでもそのたのしみは自身の中で、自身だけで昇華するつもりでいました。


朗さんが、「ヘラジカハモリニカヱル」のアイコンとした書が僕の手によるものであると知った途端、流れるように、

「わたしにも書いて欲しい」

と言ってくださった時、一も二もなく承知しました。

僕の手によるものを、他の方から望んでいただけるとは思いもよらず、物凄く嬉しかったです。


朗さんは、制限をかけていない僕の在り方、状態を、いつも赦してくださいます。

そしていつも、当たり前のように言葉をくださって、その言葉は涼やかな風のように、僕が意識的、無意識的に作り上げている制限や枠組みをはらう方向を見せてくれ、背中を押してくれます。

そんな朗さんに、僕の初めての作を捧げる機会をいただけたことが物凄く光栄で、本当にありがたいです。

僕は朗さんの、物語の一部を切りとったような雰囲気の写真が好きなので、僕が作成した花押を、朗さんの写真でブログに紹介していただけたことも、とてもとても嬉しかったです。


朗さんの描かれる漫画や、つづられる言葉から、真摯に日々を積み重ねておられる朗さんの姿を垣間見させていただくことができるので、是非触れてみていただきたいです。

嘉村朗さんの公式ホームページ

https://www.kamuralow.com/

嘉村朗さんのブログ

https://low-k.hatenablog.jp/

嘉村朗さんのTwitter

https://twitter.com/kamuralow

READ MORE